おっとっと冬だぜ

広義の意味では日記だが、狭義的にはゴミ置き場

「やけっぱちのマリア」の書評と見せかけて 新垣結衣が素敵って話

どんな絵が上手い漫画家が描く女性よりも、手塚治虫の描く女性が一番美しい

いきなり引用形式で書くと、著名な漫画家か漫画評論家の名言かと思うかもしれませんが、これは私の高校時代のクラスメイトの野田さんが言っていた言葉です。野田さんは今で言う「サブカル女」、当時で言うところの「イタい女」でしたが、私は野田さんの言ったこの言葉は今でも正しいと思っています。他の発言はほぼほぼ痛々しかったですが。

 
そんな手塚作品の中で、個人的にヒロインが素敵だと思う作品は断然に「やけっぱちのマリア」のマリアです。今日は「やけっぱちのマリア」について語りながら、マリアこそが漫画界の新垣結衣であるということを語っていきたいと思います。

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まず、「やけっぱちのマリア」について軽く紹介していきたいのですが、この漫画、学園ものでヒロインがダッチワイフという、とても「漫画の神様」と呼ばれている男が描いたとは思えない設定となっています。
これは、当時 永井豪の「ハレンチ学園」などのエログロナンセンス漫画が大流行し、逆に手塚漫画がダサいとされている風潮の中で、手塚治虫がその土俵に乗ってきたために、このような設定となったと言われています。
今回は触れないですが、精子卵子などの性教育描写もあり、男女が愛し合うというのはどういうことなのかを真剣に説いた作品となっています。

まぁ、話の中身は今から見るとちょっと荒唐無稽な部分も多く、ストーリーは割りと破綻しているんですが、マリアが超可愛いという1点突破で最後まで全然読めてしまいます。
今回の書評もいかにマリアが可愛いかに特化して書きたいと思いますので、実際のストーリーを追うことはしませんので、あしからず。

 

主人公について

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主人公は焼野矢八(やけのやはち)で通称ヤケッパチ。
中学1年生です。問題児で、ケンカばかりしています。


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物語は、ヤケッパチの妊娠騒動から始まります。


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ヤケッパチは、女性関係のことが全く分かりません。
母親がいないので、女性というものが良く分かっていません。


そんな ヤケッパチの第二次性徴を見守るのが本作の大きな流れになります。

 

ダッチワイフがヒロイン

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ヒロインのマリアですが、彼女はヤケッパチの体から出てきたエクトプラズム(魂の一部が抜けたもの)なんですね。先程の妊娠したと言っていた正体がこれで、母性愛に飢えていたヤケッパチが無意識に心の中に女性を作り出していました。

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魂だけのなので入れ物が必要ってことで、親父がダッチワイフを用意してくれます。
ドカベンの親父が畳職人だったように、ヤケッパチの親父はダッチワイフ職人なんですね。
そして、ドカベンの親父が柔道部に畳を寄付したように、ヤケッパチの親父も当然ヤケッパチのために最高級のダッチワイフを譲ってくれます。美しき親子愛ですね(ヤケッパチは最初イヤがりますが・・・)


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そして、マリアが誕生します。

この女性を描くときの線の柔らかさが手塚治虫の素晴らしさですね。
無機質なものから有機質に変わっているのが見事に表現されています。

マリアの絶対感

そういうわけで、マリアはヤケッパチの分身だということは分かってもらえたかと思います。
分身であるマリアは、当然ヤケッパチのことは絶対に裏切らないですし、ヤケッパチの全てを肯定してくれる存在なわけです。

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前半はヤケッパチに似てお転婆な性格ですが、途中から女性ホルモンをかけられ、更に女性らしくすることを教わり、おしとやかになっていきます。(今だとフェミニストが怒りそうな話ですが・・・)

このシーンで、マリアがどれほどヤケッパチのことを想っているかがわかります。

 

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マリアはヤケッパチのことが特別な存在だと思っているのですが、ヤケッパチは女性と接することが苦手なために、なかなかマリアと同じような気持ちにはなれません。(愛情を表現できない)

 

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物語 後半ですが、ここでもまだヤケッパチは素直になれません。

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これは最終回付近のシーンですが、マリアは自分のことよりもヤケッパチのことを本当に大切に思っているのです。このマリアの想いの深さがこの漫画最大の魅力なのです。
人間的に欠落した部分のあるヤケッパチに対し、マリアは常にヤケッパチの全てを受け入れて傍に寄り添っており、別れるときもヤケッパチのことだけを考えているのです。その慈悲深い愛を降り注ぐ姿は正にマリア=聖母であると言えるでしょう。
男にとって、これほどまでに理想の女性はいないと思います。ただただ、ヤケッパチが羨ましい。

ちなみに、上のシーンでもそうですが、マリアはヤケッパチの方を向くときは、いつも上目使いで、眉毛が下がり気味で、正に恋する女性の表情になっているんですね。このあたりの手塚治虫の表現の妙が素晴らしい。


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そして、何よりやっぱりマリアは可愛いのです。
いつの時代でも普遍的に魅了できるヒロインを描けるのは手塚治虫高橋留美子くらいではないでしょうか。
20年後30年後でも可愛い女性のアイコンになり得るのがマリアだと思います。

 

マリアは漫画界の新垣結衣である。

マリアはヤケッパチの全てを受け入れる特別な女性であり、まさに聖母であるというのは分かってもらえたかと思います。そして、現在の芸能界で一番の聖母は誰かと言えば新垣結衣ですね。
つまり、言い換えるとマリアは漫画界の新垣結衣なのであります。

では、なぜ新垣結衣が聖母であると言きるかですが、それを説明したいので、まず あなたの頭の中にガッキーを想像してみてください。

その時、あなたの想像の中のガッキーはどのような表情を見せているでしょうか?

もう、お分かりいただけたかと思いますが、100人の男性がいたら100人とも、満面の笑顔のガッキーをイメージしているのであります。人がガッキーをイメージするときは笑顔なのであります。
聖母たるもの、常に優しい微笑みの表情を見せていて然るべきですが、その条件で言うと、新垣結衣こそがまさに聖母なのであります。


ただ、この話をすると、こんなふうに言う天邪鬼が必ず現れます。
石原さとみだって常に笑顔だろ」
有村架純はいつも同じはにかんだ表情してるぞ」
綾瀬はるかの天然っぽい笑顔に癒されますよね」

これらは、聞き飽きた戯言(ざれごと)、世迷言(よまいごと)であります。
これらの意見に対して、今回は定量的な数値を示して反論したいと思います。

新垣結衣こそが現代の聖母であるという立証

今回、私はYahooの画像検索で出てくる1ページ目の検索結果、60画像に対して、満面の笑みなのか、微笑んでいるか、笑っていないのかを、新垣結衣石原さとみ綾瀬はるか有村架純、の4名全てでチェックして笑顔率を算出しました。
そのチェックした結果が以下の画像になります。(総製作時間2時間の大作)

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※◎満面の笑顔(歯を出して笑っている)
 ○微笑み(口角が上がっている)
 ×笑っていない(真面目な顔、キリっとした表情、変顔等)

※本人ではない写真、ダブリの写真は除く

そして、これらをまとめた表が以下であります。

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 もうお分かりですね。
そう、ガッキーは圧倒的にいつも笑顔なのです。

何千何万の不特定多数の人間に向けて、常に笑顔を振り向けている女性を聖母と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。そして、ガッキーの笑顔は、貧しい人、寂しい人、卑しい人、どんな人間にも同じだけ平等に満面の笑顔が降り注がれるのです。

ガッキーの前では、人は誰もがヤケッパチになれるのです。

ガッキー有難う。ガッキー万歳。ガッキーフォーエヴァー。

さぁ、皆さんご一緒に。

ガッキー有難う。ガッキー万歳。ガッキーフォーエヴァー。

ガッキー有難う。ガッキー万歳。ガッキーフォーエヴァー。

ガッキー有難う。ガッキー万歳。ガッキーフォーエヴァー。



えー最後、あんまり「やけっぱちのマリア」が関係なくなってきましたが、とりあえず、ヒロインがダッチワイフの手塚漫画ってだけで、読む価値はあると思います。