おっとっと冬だぜ

広義の意味では日記だが、狭義的にはゴミ置き場

パンツーマルミエは今も現役で子供たちを魅了している

今回の話がどこまで知名度のある話なのかわからないため、もしかしたら大部分の読者を置いてけぼりにしてしまう可能性もあるのだが…。
ただ、よくよく考えたらこのブログはほぼ毎回読者を置いてけぼりにしているので、今更その断りを入れる必要があるかはわからないが、一応、事前にその点を忠告しておく。


※尚、毎回読み手の気持ちなど一切考慮せずに酷い文章を垂れ流しているため、このブログに関しては、はてなユーザーが忌み嫌う「読まずにスターをつける行為」を、書き手自身が積極的に推奨している日本で唯一のブログとなっている。


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さてさて、皆さんは、「パン・ツー・マル・ミエ」なる呪文をご存じだろうか。

呪文なのか、祝詞(のりと)なのか、うめき声なのか、断末魔なのか、讃美歌なのか、そのへんはいまいち定かではないが、とにかく子供時代に「パン・ツー・マル・ミエ」なる謎の言葉を発したことがある人間は一定数いるのではないだろうか。



そして、この謎の言葉を発するときは、謎のジェスチャーもセットとなっていたはずである。
最初の「パン」で手を叩き、「ツー」でVサインをし、「マル」でOKサインを出し、「ミエ」で敬礼のポーズに似たような手の位置で遠くを見るようなジェスチャーをしたと思う。多少細かい部分は違っているかもしれないが、ジェスチャーがあったことは共通してるのではないだろうか。





その起源については、「アラレちゃん」であるとか「8時だよ全員集合」であるとか「新古今和歌集」であるとか諸説あるようである。(最後のは今勝手に作った)



しかし、一体なぜ、下着が拝覧できる状態である旨を、身振り手振りを交えて伝えなくてはいけないのか。

一体なぜ、そのような使用頻度が極めて低そうな伝言内容を、わざわざ小学生男児の中で共通認識化させる必要があったのか。


それなら、手話で「なにか手伝いましょうか」を覚えた方が余程 有意義であったはずである。

 

はっきり言って、考案者の意図が全く読めない。


深く考えだすと謎ばかりなのであるが、とにかく私の子供時代には誰もがこの言葉とジェスチャーを知っていたし、なぜか今でも強烈に頭の中に刷り込まれている。

 

 

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では、何故いきなりそんな話をし始めたかと言うと、なんとこの呪文がいまだに生きていることを知ったからである。

 


今朝、朝食後に5歳になる私の息子がこの言葉を発していたのだ。



我々の小学生時代に驚異の浸透性を見せ、大人になった今でもオウム真理教のマインドコントロールのように我々の頭に刷り込まれている謎の呪文が、30年経ってもその浸透性は衰えず、今の子供たちの脳ミソに侵食していたのだ。




この衝撃は、ダイハード打線の一員として2003年に井口、城島、松中とともに100打点カルテットを構成したペドロ・バルデスが、2013年のWBC(ワールドベースボールクラシック)でプエルトリコ代表に選ばれていたのを知った時と全く遜色のない「お前、現役だったのかよ!」感と言えば伝わりやすいかと思う。




ちなみに、バルデスは「ちゃんと守備をしない」「ポップフライだと全然走らない」というヤル気の無さで、しばし王監督を苛立たせるものの、打撃はめちゃくちゃ凄い(3年連続3割)という極端な奴で、見た目も、常に仏頂面でほぼ笑ったところを見たことがない & アメリカで天文学的な懲役年数を言い渡された犯罪者みたいな風貌 というのも相まって、個人的にはとても好きな助っ人外国人だった。


 

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バルデスは、ヒーローインタビューを拒否したこともあった。



バルデスの思い出話はそれくらいにして本題に戻すが、前述したように、今朝、息子が「パン・ツー・マル・ミエ」という懐かしい言葉を発していたのである。




しかも、更に衝撃的なことに、そのあとに「ゴリラノ・オシ・リー」という謎の下の句を付け加えていたのである。












ゴリラノ・オシ・リー?

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ゴリラノ・オシ・リー?

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ゴリラノ・オシ・リー?

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上の句を聞いた瞬間は、バルデスの思い出が走馬灯のように脳内を巡ったが、その下の句を聞いた瞬間、私の頭の中は?マークでいっぱいになった。



ここまで頭の中が?マークで埋め尽くされたのは、中学生時代、水泳の時間に、

①男子で水泳を見学する人の割合

②女子で水泳を見学する人の割合

この①と②が統計学上はほぼ同じ割合になりそうなのに、実際に集計してみると明らかに②の割合が多く、謎の偏りが生じるという現象に気付いたとき以来の ?マークで頭いっぱいの状態である。




「ゴリラノ・オシ・リー」は、当然「ゴリラのお尻」なのであると思う。


しかし、元々「パンツが見える」という文化社会学な文脈の話をしていたのに、なぜ急に「ゴリラのケツ」という生物学的な話へと飛躍したのかは全く意味が分からない。
打ち切りが決まったジャンプ漫画でも、そこまでアクロバティックな展開は見せないように思う。



もしかしたら、ゴリラは5リラで、上の句と同じく文化社会的な文脈の話なのかもしれないが、5リラだと今度は「オシ・リー」の説明がつかないので、やはり素直に「ゴリラ」だと考えるべきであろう。

 

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そして、文節に関してもおかしなことになっており、拍子の関係で文節が「オシ」と「リー」に分かれてしまっているため、それに相当するジェスチャーがなくなっているのである。

考案者の意味不明さ加減にインスパイアされたのか、誰かが更に意味不明な状態に仕立て上げたのである。

 


とにかく、「パン・ツー・マル・ミエ」は現代でも生きており、更に不思議な進化を遂げていたのである。





いや、これはもはや進化ではなく退化であろう。
謎の言葉に、更に全く文脈の異なる謎の下の句をつけて、ジェスチャーもどっかに行ってしまうのは、進化ではなく明らかに退化と言った方がいい。


 

 

そして、私の頭の中に更にひとつの疑問が浮かんだ。

 




 

もしかして・・・、

 





 

野村 望東尼(もとに)は、

 

生きているのか?

 

 




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(野村望東尼 1806/10/17 ~ 1867/12/1)



野村望東尼(本名、浦野もと子)は、幕末に活躍した福岡藩出身の女流歌人である。
彼女は勤王家としても知られており、福岡で勤皇の士をかくまったり、密会の場所を提供したりしていた。



そして、野村望東尼と言えば、高杉晋作の辞世の句に、余計な下の句をつけたで有名な人物なのである。

 


高杉晋作「おもしろき 事もなき世を おもしろく」は非常に有名な辞世の句であるが、晋作の最期を看取った野村望東尼は、病床に伏せる高杉晋作が上の句を詠んだあとに下の句が詠めなかったために、「住みなすものは 心なりけり」と付け加えたのである。(…とされている)



そして、この下の句は、司馬遼太郎が酷評していたりするし、実際に下の句の方は世間には全く浸透していない。




つまり、昔から 余計な下の句を入れる人=野村望東尼 と相場は決まっており、「ゴリラノー・オシ・リー」などいう続きを考えたのも彼女以外には考えられないのである。

 


つまり、彼女は生きているのである!!



息子の保育園に生息して、相変わらず酷い下の句創作に励んでいるのである!!

 

 



 

 

 

……

 

 

 

 

 

うん、大丈夫です。生きてないって分かってます。


 

 

ブログ書くために無理やり話を展開させただけです。


 

 

「野村望東尼は、生きているのか?」
じゃねーよ。


 

 

だいたい唐突に名前出すには、野村望東尼はあまりにマイナー過ぎだろ。




文脈もう少し工夫しろよ。


 

 

今、読み返してみても、後半の話、完全にいらないですね。

 



 


ん?

 




あれ?



 


後半、いらない?




後半に余計な文章加える?


 

 






うわっ…私の文章、

モトニすぎ…?

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